いろいろ感想とか

備忘録的な意味も兼ねて、いろんなものの感想を書いていきます

レアルタヌア セイバールート 感想

レアルタヌアのセイバールートをプレイしたので感想を書きます。

長い期間をかけてちょこちょこ進めてたせいか話の流れを忘れてるところもあったり、またこの記事を書くまでに間が空いてしまったのでおかしなところがあるかもしれません。どうぞご容赦を。

それでは物語の中身について書いていきます。

士郎が小さい子どもだったときから切嗣はあちこち旅に行っていて、その度に士郎は一人で留守番をしていたけれども、そのとき感じた寂しさも切嗣が楽しそうに話す旅先での土産話で帳消しだったというシーンがありました。
zeroを見てなくて、切嗣が血も涙も無い人というのだけは聞いているんですが、ここのシーンを見ると良い親だったのかなぁって思いました。まあ子どもを置いてけぼりにしてる時点で良くはないだろと言う人もいるかもしれませんが…苦笑 それでも子ども時代の士郎はこう言っていますし、私個人としてもこういうのいいなぁって思ってます。劇中でも士郎と契約を結んだことによりセイバーが士郎の過去を夢で見て、「あなたの知る切嗣はとても良い親でした」と言っていましたしね。セイバーは冷徹な切嗣しか見てなかったかもしれませんが、切嗣にもこういう一面があったと分かればセイバーにとっても好ましいものではないでしょうか。それでセイバーの切嗣に対する評価が改まってくれたなら嬉しい限りです。

それでは次に行きましょう。

序盤のVSバーサーカーは、誰かを助けようと思っても「近寄れば絶対にこ○されると理解して」いれば普通は動けないはずなんですが、士郎は動けてしまうという彼の異質さが示されるシーンでした。
凛ルートでもギルにやられるイリヤを助けるために飛び出してしまいましたしね…。
これらを知ってるから、HF3章で士郎がイリヤに「自分以外の誰かのために、自分を犠牲にするな!」が特大ブーメランで「お前が言うな!」というツッコミを入れたくなって、個人的HF3章唯一のギャグシーン()になってしまうのでした…。あげくの果てにはイリヤに「自分を棚に上げて…」とか言われてますし…笑
近寄れば絶対にこ○されると分かっている、と同時に大切な人もその場にいるという状況があったとして、私が考えるに、死ぬのも怖いですけど、犬死するのもまた怖いですよね。だから私はそういう状況になっても動けないです。ところが士郎はそういう状況でも動けてしまうからあなたはおかしいだのなんだの言われて、特に策も無く飛び出すけどアヴァロンがあるから死なないという。まあ美味しいといえば美味しいんですかね。普通は犬死なんですが、大体はアヴァロンのおかけで生きてるだけ。アヴァロンみたいな超回復能力があるなんて普通は思わないから、そんな犬死するようなことは止めなさいと凛もセイバーも士郎に言うのでしょうね。
ほんとよくよく振り返ってみれば、士郎はアヴァロンが無かったらとっくにくたばっててもおかしくないんですよね。というかあれが無ければ何回し○でましたかね。考えるのも恐ろしい…。


他の皆でご飯食べてるのにセイバーだけのけものにしていいものか、と士郎が言っているシーンがありました。無論、ご飯はみんなで食べた方が良いのでしょうが、聖杯戦争というごくごく秘密裏に行わなければいけないものなのに、この発想はいかがなものでしょうか…。しかも藤村先生や桜もいるのに。彼女らなら良い人だし、魔術師じゃないから大丈夫と思っているのでしょうか。まあ、これとて「近寄ればこ○されると分かっていた」のと同じで、こうしなければ気が済まなかったのでしょうね。こういう人なんですよね、士郎は。


凛によるところの「自分よりセイバーが大事だから、無茶と分かってても勝てないと分かってても戦う。その結果が死でも構わない。なぜならどうしてか知らないけど、アンタの中では自分より他人が大切だからよ」という台詞がありますが、これを聞いたとき彼女は本当に士郎の理解者なんだなって思いました。凛ルートでは何もかも(というわけでもないですが)上手くいくようになってるのはこういうことなんですかね。


凛は本当に良い人っていうか情に篤いというか、そういう人ですよね。魔術師としては素人の士郎のこともよく教え導いてくれますし。面倒見が凄く良いんですよね。普通なら匙投げてもおかしくないのに、最後まで付き合ってくれて。フェアじゃないとか借りを返すとか、そんなの魔術師の世界で気にしたらやってられない、まして聖杯戦争というこ○し合いの中でなら尚更。無駄だと分かっていながらそれでもやるところに人間性が出てるのかなと思いました。桜ルートはまだやってませんが(劇場版三部作は観ました)、人間性なら3ヒロイン中でNo.1だと思ってます。


凛の「殴り合う覚悟っていうのは、一度殴り合わないと一生つかないものね」っていう台詞、特に大事なシーンでもないのですが、個人的に好きなんですよね。何でもやってみなければ分からないっていうのはそうだと私も思っているので。私なんか自分で痛い目を見なければ絶対に分からないというか、頭では分かっていても身体で理解しなければ分からない人間なので、この類いの台詞を見る度に自分の至らなさを感じている次第です。
でも、まずやってみるというのが難しいんですよね。何かのきっかけがないと。始めてしまえば何とも思わない、むしろそれをきちんとやろうとするんですが、本当に最初の一歩を踏み出すのが難しいんですよね。…まあ、私事はこのへんで。


確か士郎が美綴のことを言っていたシーンだと思うのですが、この「黙っててもいいけどそれなりの条件が無いときついかな」とかふざけて言ってるシーンはめっちゃ笑いました。もっともらしい声色でこういうふざけたことをほざいてたんですよ笑
東京グールで篠原特等が真戸親子を評して「ふざけたことを論理的に言ってくるところなんかそっくりだ」と言っていたのを思い出しちゃいました…笑


これは私の大好きなシーンなのですが、士郎がご飯を作るときにちょうど凛が帰ってきて「なに?エプロン姿でお出迎え?結構似合ってるじゃない、そういうの」というところがあるんです!
なまじ凛はさっぱりした性格でどこか男らしく、そして士郎は家事が出来るものですから、この「仕事帰りの凛をエプロン姿の士郎が出迎える」っていうのが凄く想像できてしまってまた良いんですよね。ぜひそんな士凛の二次創作を見たい…!
士郎じゃなくてこれを自分として置き換えても、遅くに帰ってきた凛を労うというシチュエーションはなんというか憧れます。あぁ、遅く帰宅してきた凛を労いたい…。


この後の「殴ったって、もしかしてベアか!?」「そりゃベアもベアよ」とか「人を呼びつけておいてつまんないこと言うから殴り付けて黙らせたのよ」も面白かったです笑 それと先出しじゃないと気が済まないとか言ってて、凛ルートのときも凛が先出しでしたっけ?とか思ったんですが、忘れちゃいました。


学校でのセイバーVSライダーのところなんですが、士郎が窓から落っこちて令呪を使うシーンも好きです。セイバーに着地助けてもらうのもロマンありますし、なんというか不思議な嬉しさというかくすぐったさというか、そういうのがあります。騎士に助けてもらえるなんて、っていうのが。
HF1章で、士郎がバーサーカーにぶった切られて目を覚ましたときセイバーが士郎の手を取って「マスター。大丈夫ですか」っていう台詞ありましたよね。あのシーンは作画もセイバーの声も大好きで、セイバーに抱きかかえられてあの台詞を言われたらたぶん惚れます。HF1章の最初の方のセイバーの声って、まだ召喚されたばかりだからか少し声が固いというか低くて、それがカッコよくて好きなんですよね。
さて、話は戻りますが、ただこの場面は士郎のかっこよさだけならセイバーに助けてもらわない方の選択肢の方がかっこよかったですね。


結界を張った慎二を士郎が押さえつけるところがあったんですが、士郎らしからぬ即殺しようとする動きがあって結構好きでした。あの士郎がここまで言うなんてって思ったのを覚えています。ただまあこの場面ではこうでも言わなきゃ学校の生徒達の命が危なかったですからね。やむなしですね。あとここで慎二が藤村先生を足蹴にしたのは忘れてません。いくら慎二が魔術師の家の長男として産まれたのに魔術回路の1本も無くて可哀想とか言われても、それとこれとは別ですから。この一事だけで、元々地を這っていた慎二のイメージがさらに下がりました。まあそれを行ったのはあくまで"セイバールートの"慎二である、というところはきちんと認識していますが。

切嗣に助けてもらったときを士郎が振り返るシーンはとても好きです。
bgmも込みにしてこのシーンまるごと好きなんですが、その中で好きな台詞を挙げるなら「まるで、救われたのは俺ではなく、男の方ではないかと思ったほど」と「そう―いつかは自分も。あのときの切嗣のように笑えるのなら、それはどんなに、救われるのかと希望を抱いて―」でしょうか。
それでどういうふうに好きかと言われると、「切嗣が嬉しそうだったから」「士郎の生き方を決定付ける一つであったから」「このシーン一つで、自らが引き起こした大災害に責任を感じていて、そのなかで一人でも生き残っている人間を見つけることができた切嗣と、あとわずかで死にゆく存在だった士郎の二人が同時に救われている(救済されている)から」「舞台設定(この状況に至るまでのそれぞれの思い)を踏まえて、切嗣も士郎も、この瞬間は万感の思いで、この後もずっと心に刻まれる出来事だったのではないだろうかと思えるから」とかですかね。

つまり…

舞台設定を踏まえて、このシーンは切嗣と士郎にとって大きく心が揺り動く瞬間であり、また士郎にとって後の生き方が定まる瞬間であり、bgmも相まってそれがこの物語の読み手である私にとってもそれがよく伝わってくるから。そしてさらに私がここの文章表現が好きだから、です。
と、まとめてはみたものの、なんか上手く説明できた感がありませんね。でもここでセーブデータを残すくらいには私はこのシーンが好きでした。


バーサーカーを倒したあとの凛が「宝石全部使っちゃった」って言った場面ですが、ここでも彼女は人間として魅力的だっていうのを感じました。
最初は石は3個くらいしか使わないとか言ってて、皆からケチだなって言われてたのに結局全部使ってるし、長い年月をかけて作ったものでもこれは生き延びるための必要経費だったと理解してか士郎曰く「惜しんでいない」。それを作るために年月をかければかけるほど、惜しかったと思う気持ちは大きくなるだろうけど、でも凛はここが使い時だったともう無くなってしまったものに執着を見せていない。そういう凛の潔さが表れてますよね。
そして皮肉ではないけれど士郎に残念だったなと言われても、「ありがと。次はもっと良いものを作ってみせるわ」と返しました。そこには事態に向き合い、それを飲み込んだ上で、前向きに歩き出す彼女の姿勢がありますよね。そういうところが本当に好きです。


この頃あたりから士郎はセイバーに「王なんてやめちまえ」みたいなことを言ってて、私はそれが好きじゃなかったんですが、あれだけ鈍感で通してきた士郎が「あいつが好きだ」って直球を口にしてたり「どうしようもないくらい」「訳も無く泣いてしまうくらい」とまで彼女のことを想っていたと分かるシーンが来たものですから「そっか、セイバーのことが好きだったんだ。だからああ言ってたんだ」って、頷いてました。少しだけ…苦笑


セイバーをデートに誘おうとする士郎を凛が茶化してる場面があるんですが、そのとき「遠坂おまえubw見てろよ見てろよ。散々茶化してくれてるけど、ubwはあなたがヒロインのルートなんですよ」って思いながら見てました笑


セイバーとデートで街に行くためにバスに乗車してるシーンがあるじゃないですか。cg付きの。そこに至ってようやく「あっ、そういえばこのゲームってギャルゲーだったな」って思い出しました。このゲームは正真正銘ギャルゲーなんですが、ここまであまりにも殺伐としてたんですっかり忘れていた次第です笑


※ここから先はあまり好きじゃなかったことについて書くので、そういうのが嫌な人はしばらく下にスクロールして読み続けてください。この話題が終わったところに※印付与します。

ここから下は好きじゃなかった点についてのことになりそうなんで、書くか迷ったんですが、「このブログの趣旨は備忘録である」こと、「それがたとえ一時の感情で、後から思い直すことになったとしても、それは間違いなくそのとき感じたものである」ということを踏まえて、書き残すことにしたいと思います。

「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」、「何を言うかが知性で、何を言わないかが品性」という言葉を聞いたことがあります。
確かに私はそれらの言葉に同意します。と同時に、つい言いたくなるようなことって、好きだから言うとか嫌いだから言わないとかじゃなくて、その好き嫌いの度合いによるよなぁとも思っています。だから嫌いなことの方が先に口から出ちゃったとしても、そちらの方が好き嫌いの度合いがより大きいのなら理解は出来るけど、まあ結局口に出すのかどうかは本人の自由というところなのではないかと。とりあえず書きますね()

さて、その中身に入っていきます。
士郎がセイバーに「王とかどうでもいい。おまえはここで生きろ」云々言ってたのは正直きつかったです。士郎がセイバーのことを好きだからそう言ってる、というのを込みにしてもきつかったです。

そういう行動を取る理由の一つとしての「好きだから」っていうのを軽んじるつもりは全くありません。むしろ尊重します。というか世の中、「これが好きだからあれしたい」というのが色んなところで原動力になっていると、特にこういった界隈にいればよく分かることなので。

でまあ士郎もちょっとしつこいかなって。「おまえはアルトリアという少女として生きろ」と言うことについてはいいんですが、それは何度もセイバーに否定されているのにそれでも言い続けるのはちょっと無理でした。
個人的に他人の生き方とかそういう部分に対して口を出すのは好きじゃなくて、まあこれは私のことなんで、ゲーム内の登場人物がそれを言うことに対してうるさく言うのもあれなんですけど。ただセイバーは明確にこの士郎の言うことを否定してますから。一応、後でもう少し物語が進むと、やり直しにこだわっても仕方ないと考え直しはしますが。
しかもそれをこれから先に長い人生のある生きた人間に対して言うならまだいいんですが、相手は聖杯の求めに応じて召喚されただけのサーヴァントなんですから、そんな相手に説教かまして何か意味があるのか。まあセイバーは他のサーヴァントと違って、特殊な立ち位置ではありますが。
それにセイバー自身は国のために尽くすことこそが自分のためになると言ってるのだから、それ以上もそれ以下も無いのではないかと思いました。それを否定して「おまえは自分自身のために生きろ」だなんて言い続けること自体、セイバー本人の気持ちを無視してるし、自分の思い通りにならないと気が済まないから喚き散らしてるだけにしか思えないし、それこそギルのようにただ我が儘を言ってるのと何も変わらないと思いました。
セイバーのことが好きだから、彼女には笑っていてほしい、は分かります。でもセイバーのことが好きだからこうあってほしい、はただの士郎の我が儘に過ぎないのではないかと思ったりもしました。セイバーのあり方はセイバーが決めることで、他人が口を出すことでもない。そんなにセイバーに幸せになってほしいなら、彼女が聖杯を手に入るようにすればいい。それこそが彼女にとっての幸せなのだから。…本人が気付いてないだけで、そっちこそが本来その人にとっての幸せへの道であるとかは考え出したらもうキリ無いんで今はやめます。とにかく、「セイバーは自分のことを考えてない」と士郎は言っていましたが、王の誓いこそが彼女にとって自分のことに他ならないのですから。
そしてそもそも士郎と私には考え方の違いがあって、セイバーの「過去に戻って王の選定をやり直したい」という願いを士郎は否定してるけど、私はそれを否定していない。むしろ自らの破滅と引き換えでも何でもいいから国を救いたいというその気持ちはなんて立派なんだろうって思います。
こう思ってしまうのは、たぶん私が戦国とか三国演義の漫画の読みすぎなんですよね。こういう歴史物を読んでいると忠義だ信義だ仁徳だ忠孝だ礼だ一身これ胆だっていう話が凄く多いんですよね。なので確実にそれに影響されていると思われます。

前置きがめちゃくちゃ長くなってしまいましたが、つまり国のために滅私奉公することは誰にでも出来ることじゃなくて、それは凄いことだと思っています。だから私はセイバーの聖杯にかける願いは否定しない。どころか凄いことだと思うので、進んで手伝いたい。けれど士郎はそれを否定している。その時点で、士郎視点で進むこの物語を私は楽しめるわけがないんです。この一点においてだけは。

この記事を読んでいる皆さんに誤って理解してほしくないのは、ただこの一点が気に食わないということのを理由として全てを否定しているのではなく、あくまで士郎の「アルトリアとして生きろ」という部分が私には合わなかっただけ、ということです。私はこのセイバールート自体はとても興味深くプレイしていました。

些か蛇足かとは思いますが、書かせて下さい。
そもそも物語を楽しむということを、私はそれをきっと自分の気に食うかどうか、それで判断している部分が大きかったです。気に食えば面白いし、気に食わなければつまらない、そういう意味です。まあ当たり前のことですよね。そして劇中の主人公が自分の気に食うことをしているから、自分はその主人公に感情移入できる。その主人公の行動の全てではなくとも、気に食うところがあるから、理解できる。感情移入出来る・理解出来るから、面白いと感じる。
私にとって、ここは面白かった。ここは面白くなかった。別にそれだけで良いんですけど、でも、最近新たな視点が加わりました。
私はこう思うけど、この人達はこう思った。だから劇中でこう行動している。それがこの人の人生だ、と。
元よりノベルゲー自体、物語を通して、誰かの人生を覗き見しているだけに過ぎない。だから、物語を読みながら「なるほど。この人はこの場面でこう思ったのね」と楽しめばいい。主人公の行動や価値観が気に食わなくて、感情移入できなくて、「なんじゃこりゃ」と思うこともあります。というかここではめっちゃ思いました。スマホのメモ帳に相当鬱憤を言葉でぶちまけました。そしてその上で、「なるほど、この人はこう感じたのね」と。そう理解…いえ、理解じゃないですね。気に食わないんですから。尊重、なんて大層な言葉でもない。ゲームで物語を読んでいるだけなのですから。受け入れた、流した、飲み込んだ。どれでしょう。たぶんどれかです。

あらためて考えると、私はよほど気に食わなかったのでしょうね。自分はこう思わないな、でスルーすればいいのに、ここまで拗らせてこんな長文を書いてるんですから。長々と書いてきましたが、つまるところこれは「ここが気に食いませんでした」ということをただ書いてるだけです。気に食わない、という方向性で大きな感情を抱いてしまった。少し前に書いた、好き嫌いの度合いが一番大きかったのはここなんでしょうね。やっぱり負の感情って大きくなりやすいものなんでしょうか。暗黒面は素晴らしいぞ、ってやつなのかもしれません。


さて、続きをいきましょう。長々と書いちゃいました。


橋の近くの公園でギルと戦う場面ですけど、セイバーも士郎もボロボロにされて選択肢が出てきますよね。で、それでも士郎は立ち上がって、セイバーに「どうして無理だと分からないのですか」と言われます。正直ここは私も同じように思っていました。無理なものは無理なんだから、諦めようって。でも多くの漫画では「それでも諦めない!」っていうのが黄金パターンですよね。特にこのゲームはバーサーカーに自ら突っ込んでいったりした方がタイガー道場に行かなくて済むような選択肢が多いですよね。確かにそれで諦めてたら物語にならないんですが、かといってそれで訳の分からない主人公補正で大した説明も無く強大な敵キャラがいきなり負けるというのが私は非常に気に食わないのでそう思っちゃうんですよね。


教会地下での聖杯問答のシーンは咀嚼するのに時間がかかりました。今でも咀嚼しきれてないかもしれませんが。
プレイしてるときにこの場面で思ったことがあるので、以下に書きます。

士郎はここで聖杯にあの十年前の火災を無かったことにしたら、あの火災に打ちひしがれ、そして乗り越えてきた人たちの全てまで無かったことになってしまう。それは嫌だと言って聖杯を拒否しました。

確かに聖杯で過去を変えてしまったらあの人達の悲しみや苦悩すら初めから無かったことになるだろう。けれど、もしあの火災が起きなかったら、全てが元のままの幸せが蘇るのなら、それは悪いことではないのではないか?

また、ここでセイバーが言ってるのは、さっき士郎が言ってたのと同じこと。過去を変え、今まで起きていたことを無かったことにしたら、これまで懸命に内にある感情を抑えてしたくもない人こ○しをしたことや、そうして奪われた人たちの悲しみ、その奪われた悲しみを乗り越えた人たちの強さ。それが無かったことになってしまう。それはあまりにもむごい、と。
でもそれってそういう感情に自ら直面してきた士郎やセイバーだからこそ、そう思えて、そして言えるんだろうなと。
でも私は違う。これほどの大火災を経験したことも無いし、王としてブリテンを駆けたことも当然ない。だから、この考えに完全には賛同できない。今まで失ってきたもの、散らしてきたものを忘れないようにするなんて、ただの自己満足。そうやって忘れないようにすることで自分を許し続けようとしているだけ。聖杯の力で過去を全て塗り替えられるなら、それが皆にとっての幸せなのではないだろうか?

だからこれはきっと視点の違い。士郎とセイバーは当事者として人間が苦しんでくる様を見てきたからこそ強くそう思った。けれど私にはそういう当事者意識は無いから持てない。だから私はただ物語を読む者として、そう思った。もし私が当事者であれば、そう思うこともあったかもしれない。

それとセイバーの場合と士郎の場合では事情が違うというところもある。
セイバーの場合、選定の剣の引き抜きをやり直したところで、セイバー以上に優れた人物がいるのかどうかにもよるからだ。士郎の場合は、火災が無かったことになるだけなら、それは明確に皆にとっての幸せだろう。けれどもセイバーの場合の、王の選定をやり直してもセイバー以上に優れた人物がいなかったのなら、王の選定のやり直し自体が誤った行為であったということになってしまう。もしそうなら、セイバーより劣る者が王となり、結果としてセイバーが王になったときよりも多くの者が苦しみに喘ぐことになる。まあセイバーからしたらそこまでは知らねぇよ、かもしれないけど。

ここはセイバーが過去にとらわれるのをやめ、これから先に生きていく(瀕死の重傷ですが)ように自己意識が変わる重要なシーンです。自分はもう十分やった。それを間違いとするまでもない、と。
確かに「自らやってきたことを否定するまでもない」というのはその通りで、あれだけやってきたんだから、誇っていいことだと思います。士郎が言いたかったのもこれでしょう。ただ別問題として、セイバーが全霊でやってきたのはそうなんですが、ブリテンが悲惨な運命になっていることには変わりないんですよね。セイバーが頑張ってきたことを私も否定しませんが、ここでセイバーが自分の願いを放棄したことで、ブリテンが良い方向に変わる可能性すら断ち切れてしまったのではないかと思ったんです。まああの通り聖杯は眉唾物だったので、もうどうしようもないんですが。けれど仮にあれが本当の万能の願望機だったとして。確かにセイバーのやってきたことは間違いではない、けれどブリテンが悲惨な運命になったという事実がある限り、それ(もう一度やり直すという願いを放棄すること)は間違いだったとも言えると思うんです。一度やってきたけどダメだったからもう一回やり直す、とかいう普通じゃありえないことをやろうとしてるわけで、その願いを放棄しただけで直ちに「こいつは国を捨てたんだ!」と言うのは言い過ぎですけど、自分を認めることでブリテンが良くなる可能性すら放棄してしまったのではないかと…。もちろん一回死力を尽くしたのだから責めるなんてことは出来ません。…ほんと聖杯の力がどれほど働くか次第ですよね。完全に時の巻き戻しをしてくれるんならいいんですが、中途半端なことされてもあれですし、肝心の現物はもうあんなだし…。

というお話でした。


さて、また教会の地下なんですが、さすがにあの惨状にはびびりました。HFで綺礼自身の性質や境遇による葛藤が窺えて、そこはよかったんですけど、さすがにこれは擁護不可能でしょう…。何を言われたところで、この1件を持ち出すだけでもうアウトなレベルです。これについては誰のルートであっても確定事項でしょうし。
そしてこの場面で聖杯はセイバーが望んだものではなかった、ならなんで生きながらにしてサーヴァントとなる契約を結んでしまったのか、となるシーンがあります。
ここの「破壊でしか願いを叶えられない」って絶対アヴェンジャーの影響ですよね。っていうか、HF3章で聖杯自体のそもそもの発端を見る限り、願いが叶うなんていうのはサーヴァントを呼び出せるマスターを集めるための口実・建前で、万能の願望機という触れ込み自体が出まかせなんじゃないでしょうか、きっと。もしそうならなおのこと、なんなんって感じです。
とはいえ、破壊でしか願いを叶えられないなんて、綺礼にとっては最高のおもちゃだったということですね。さらに言うと、この前のシーンで士郎やセイバーに願いを叶えるんなら聖杯は譲ろうとか言ってたけど、この"破壊の聖杯"では二人が求めるような願いなんて叶えられないって知っててわざとあんなこと言ってたんですよね?さすが「幸福こそが苦しみであり、絶望こそが幸せだった」というようなことを言う人間なだけあるなって感じです。
それとランサーもかっこ良かったですね。ランサーとギルの両方を相手にするとか無理じゃんと思っていたら、相手は両方とも互いに互いを狙っているというオチで。そしてランサーは「自分の信条に肩入れしてるだけなんだからよ」って。その後おそらくギルにやられたんでしょうが、自分の信念のままに生きる姿は私にとって凄くかっこ良かったです。…そして信念を貫き通せるだけの実力も。


ラストのVS綺礼での趣味嗜好の話ですが、一定の理解はできました。「追い詰められたときこそ本性が出る」とかなら、私も興味が無くはありません。これはそれのさらに趣味が悪いバージョンですが。その人間の本質というものを、物語上でなら目の当たりにするのは非常に面白いものですから。本質・本音をさらけ出して、そしてどうなるのか。物語においてはターニングポイントになりうるところだったりしますし。
それと「胸に迫るものがあっただろう?」と言っていましたが、それほど心に残るということですよね。それだけなら分からなくもない…んですかね?私も、身体から自然とそういった感情が湧き起こるくらい凄いと思えることは求めています。例えばスポーツでスーパープレーを見たとき、思わず「すげぇ…」って言ったり、ガッツポーズしたりしますよね。それは「よし、喜ぼう」と思ったわけじゃなく、自然とそうしているものじゃないですか。そういうのを私はいいなぁと思っています。漫画やゲームのストーリーを読む中で意図せず自然と涙が出てきたり、感動したり、熱くなれたり、思わず頭が真っ白になってしまうほどあっけにとられたり。HF3章でエミヤアレンジが流れてきたときなんて、自然と心がワクワクして、生きてるを実感しました。
とはいっても、その綺礼の嗜好だって自分は高見から見下ろしてただ眺めるだけならそりゃあ楽しいでしょうね。士郎のような当事者からしたらたまらないでしょうが。まあ良い趣味ですよ笑


そして最後のセイバーとの別れの場面ですが…。
セイバーが聖杯を壊すときのcg絵がHF2章で黒化セイバーがバーサーカーにとどめをさすときのと同じ構図でしたね。あと最後に士郎はセイバーに「その責務を果たしてくれ」と言っていましたが、これもHF3章で綺礼がやられて「おまえが最後のマスターだ。その責務を果たすがいい」と台詞選びが同じで「ああ、同じだ」って思いました(語彙力)。

長々とやってきましたが、ひとまずこんなところでしょうか。

読後感としては、若干すっきりしないところはありました。bgmも背景も青空で、セイバーとも想いを伝え合ったとはいえ、完全にハッピーエンドではないですから。ただ士郎的には後腐れも無いようですし、本人が良いならまあ…って感じではあります。


bgmについては、蘇る神話(2012)とsorrow(2012)がとても気に入りました。蘇る神話を最初に聴いたとき「あれ?これfgoにもあった気がする」って思ったんですけど、こっちがもとの出典だったんですね。
この曲を聴いていたく気に入ったものですから、すぐサントラをポチって、楽曲を取り込んで毎日聴いてます。この曲、めっちゃかっこ良いですよね。しかも開始1秒でサビなので、手っ取り早く気分を上げたいときにぴったりなんですよ。しかもそれだけじゃなく、曲を聴いてるとセイバーとバーサーカーが遠目で打ち合ってるcgが目に浮かんできて、それだけでなくタイトル名どおりの荘厳さも感じるのでとても好きです。
そしてsorrowは、主にセイバーと士郎のギャルゲ的場面で流れていましたが、物語・彼彼女の心情とも相まって、この鍵盤の音と電子音が心に響いてきました。近付いては離れ、離れては近付く。もしくは恐る恐る距離が近付いていく。そんな一筋縄ではいかない心の葛藤がありつつも、っていう感じをメロディーから受けました。
他に好きなbgmは静かなる声、突破口、消えない想いあたりでした。


このゲームの三人のヒロインで誰が一番好きかって言われたら、桜ルートはまだやってませんので、今のところはセイバーです。
凛も人間的に凄く魅力的で尊敬できてかなり好きなので、その差は僅かなものかもしれませんが。
でもセイバーはやっぱり本物の騎士で、セイバーの好きなところはどこ?って聞かれたら、「騎士なところ」って答えると思います。前半のあたりでサーヴァントとしての栄養補給のために魂を食らう云々の話になったとき、「私は私の信念に従って行動します。武器を持たない人間を傷付けることはできません。それでもそうさせたいのならその令呪を一つ頂くことになりますが」と言っていたり。橋でのギルとの戦いでエアに敗れ、自らはボロボロになってもあくまで士郎には逃げて下さいと言ったところ。あくまでセイバーは士郎の剣、その関係性を最後まで崩さなかった。そして最後の別れのシーンでの「貴方の剣となり、敵を討ち、御身を守った。その約束を果たせて良かった」という台詞も好きでした。散々先述しましたが、元々聖杯戦争に参加しているのも自らの国のため。国のために自らを擲って尽くしたところ。魔が差してしまったバッドエンドもありますけど、それでも忠義の騎士と呼んで差し支えないと、そう思ったので私はセイバーが一番好きです。


というわけで長々とありがとうございました。桜ルートが終わったらそちらの感想も書きたいなと思います。それでは。